空海と最澄の喧嘩の原因 密教経典「理趣経」
空海と最澄
真言宗の開祖である空海と、天台宗の開祖である最澄。二人は共に、804年に遣唐使として中国に渡りました。同じ船ではなかったため、二人が出会うのは5年後だったそうです。待遇は違い、最澄はいわゆる国費留学、空海は自費留学でした。しかし、密教との出会いが二人の立場を逆転します。
真言密教の第七祖である恵果和尚は空海と初対面で彼を後継者に指名しました。1000名を超える弟子がいた恵果和尚でしたが、異国の地から来た若者である空海が第八代の伝法者として認められました。そこから驚くべき早さで胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨の灌頂(かんじょう 仏の位に達したことを照明する儀式)を行います。恵果は、空海と出会ってから6ヶ月で息を引き取ります。その際に「すべてを伝えたのですぐに日本に帰り国の平安と人々の幸福を伝えなさい」という遺言が残され、さまざまな経典を受け継ぎます。空海は20年という留学期間を約束していましたが、大幅に切り上げ日本に帰ることとなります。
真言宗と天台宗
日本に帰国した最澄は比叡山にて天台宗を、空海は高野山にて真言宗を開きました。最澄は天台宗の教えを確立させるために、後輩であった空海に弟子入りをしています。空海も、最澄に密教に関するさまざまな経典を幾度となく貸し出しました。しかし、理趣経の経典に関しては貸し出しを拒みました。このことが原因で二人の喧嘩が始まってしまいます。
空海は意地悪をして理趣教の経典を貸さなかったわけではありません。高野山で3年間の修行をすることを条件に貸し出すという提案を行なっています。経典だけを解釈しても理趣教を身につけることができないと空海は考えていたからです。密教の習得には、理論と実践の両方が必要です。経典が理論、修行が実践となります。この申し出を再三断った最澄は怒ってしまったそうです。
理趣経
最澄にあてられた空海の手紙にはこのように書かれています。「理趣(真理 悟り)を求めるのであれば、それは貴方の中にあるもので、それは修行を通じて体得するものである。文字(経典)に求めるべきではない。」これはもっともなことです。いくら頭で理解しても、悟りに達するためには修行が必要です。
では、これほど重要な経典である理趣経には何が書かれてあったのでしょうか。理趣経はその他のあらゆる経典と大きく異なる点があります。それは、性の快楽を認めていること。根源的な行為を肯定することで、煩悩を含めた人間の存在そのものを肯定しようとするものです。タントラの考えが受け継がれていると私は考えています。
タントラセラピー(タントリックヒーリング)においては主に呼吸によって、女性と男性のエネルギーがシンクロすることによりオーガズムに達することができます。これが仏教でいうところの悟りであり、ヒンドゥー教におけるクンダリニー覚醒であると考えます。